Muranaga's Golf

46歳でゴルフを始めて10数年。シニアゴルファーが上達をめざして苦労する日々をつづります

ピッツバーグ(Pittsburgh)を懐かしむ

G20 を控えた先週の The EconomistThe revival of Pittsburgh: Lessons for the G20(「ピッツバーグの復興:G20 への教訓」) という記事が載った。ピッツバーグは 15年ほど前に 1年半住んだ町。懐かしくて、この号で最初に読んだのがこの記事である。


「なぜ G20ピッツバーグで開催?普通は首都でやるもので、古い産業の町(rustbelt city)でやるものではないだろう?」多くの人がそう思ったのではないだろうか。1980年代はじめに鉄鋼産業が破たん、12万とも言われる製造職が失われ、毎年5万人もの人がピッツバーグを離れた。しかしその後、長期間にわたる計画的な投資を行って、ピッツバーグは見事に転換・復興を果たし、今やグリーン・テクノロジー、教育、研究開発といった技術革新の中心へと変貌を遂げている。


The revival of Pittsburgh

その象徴となるのが UPMC(the University of Pittsburgh Medical Center)、ピッツバーグ大学の医療センターである。80億ドルのヘルスケア・コングロマリットであり、5万人の従業員がいる。

ヘルスケア分野では 30年かけて10万の職を作り出し、教育分野では、市中にある 35 の大学と 100 の企業の研究所で 7万人以上の人が研究開発に携わっている。今でも 8% の人が製造業にかかわっており、US Steel の本社もある。同時にロボティックスやエレクトロニクス、ナノテクノロジーイノベーションの中心地ともなっている。

起業家精神も育成され、州が支援するファンドがアーリーステージの開発を支援している。アルツハイマー症候群を止める神経生理学のスタートアップがその支援を受けている。評価の高いカーネギーメロン(Carnegie Mellon)大学やピッツバーグ大学が多くの企業や職を呼び込んでおり、ピッツバーグの 7月の失業率は 7.8%だった(全米で 9.4%)。

雑誌 Forbes はピッツバーグを、職が増え続けている米国最良の都市の一つと名づけた。2009年初頭から 1万ほど増えて 3万もの職がある。Westinghouse はすごい勢いで人を雇っており、全米で 8.4% の原子力技術者がピッツバーグにいる。よい給料と生活・教育コストの低さが人々をひきつけている。ピッツバーグを最も全米で住み易い町と称した雑誌もある。トップクラスのピッツバーグ交響楽団(Pittsbrgh Symphony Orchestra)やピッツバーグ・オペラがあり、さらにはビクトリア風のタウンハウスをびっくりするほどの価格で買うことができる。

ドットコムや不動産のバブルの影響も大きく受けず、ダウンタウンには新しいスポーツ・アリーナや病院、そしてこの10年間で初めてだが新築の家が提供されつつある。2003年に市が破綻したそうになったときには、1/4 の職員をカットしたり、消防署を閉鎖したり、難しい意思決定を行った。それが今の不景気をうまく乗り切るのによく働いたと言える。
"The revival of Pittsburgh: Lessons for the G20"(The Economist, September 19th-25th 2009)より

このように、苦境から30年をかけて復興を遂げた素晴らしい都市として、The Economistピッツバーグを紹介している(ウェブのコメント欄では、記事で紹介された光の部分だけではなく、陰の部分もピッツバーグ在住者から指摘されている)。

僕がピッツバーグカーネギーメロン大学に研究員として滞在していたのが 1994年から1996年の 1年半。当時も既にコンピュータ・サイエンス、ロボティックスでトップクラスの大学であり、また医学部で有名な隣りのピッツバーグ大学には多くの医者が留学してきていた。当時2歳だった子供が病気にかかった時も、近所にクリニックがたくさんあって安心感があった。クリニックで英和辞書と首っ引きで、病名と症状を確認したのも、懐かしい思い出である。

当時のピッツバーグは、医療と教育の町へ移行する過渡期であったと思う。古い鉄鋼の街並みは残り、治安も決していいとは言えない町であった。僕自身、車を盗まれかけたこともある。冬は摂氏 -15度くらいまで気温が下がり、どんよりした曇りの日々が続く。毎週日曜日にスティーラーズの試合を観る以外に楽しみがないものだから、大学で研究に専念するしかないという、ある意味研究員にとっては「理想的な」環境だったかもしれない。窓のない大部屋のキュービクルで、MIPS と Alpha といった CPU のワークステーションMach OS を動かして、そのソースコードを読みながらモバイルコンピューティング用のファイルシステムの研究を行っていたのだった。

そのカーネギーメロン大学のコンピュータ・サイエンス学部は、今新しいビルが建ったばかりのようだ。その名も「ゲイツ・ヒルマン・センター」ビル・ゲイツ夫妻の財団とヒルマン財団が寄付して、総工費 100億円とのこと。真っ暗な冬の夜空の下、エンジンがかかるかなぁと不安に思いながら車に向かっていた駐車場のあたりが、すべて造成されて、すっかり様変わりしてしまっている。

まだ Windows 95 もなく、インターネットも研究用に使われた時代(Web ブラウザ Netscape Navigator が出たのが 1994年、Java が出たのも 1995年である)。個人用には Intel 486 のノートPC に Linux 0.99 で日本語環境を整えて(EmacsLaTeX で論文を書く)渡米した。ピッツバーグに来ている日本人もそんなに多くはなく、数少ない生活情報の中、自らサバイヴしていく毎日であった。そういう中にあって、日本人の大学院生の有志が、日本語環境の動くワークステーションを立ち上げて、そこで日本語でやりとりできるメーリング・リストを運営してくれていた。研究室の先生にかけあって、ワークステーションを調達してくれたおかげで、当時としては非常によい情報交換環境が提供されており、本当にありがたかった。

そして日本人家族がボランティア的に生活情報をまとめていったのが「ピッツバーグ便利帳」である。当時は LaTeX で書かれていたが、今やこれも Wiki 版になり、皆で共同編集できる環境が整えられている。今も昔も、こうやって有志の方がボランティアでがんばってくれているのである。

この日本語情報を提供するサーバの名前が「小町」(komachi.sp.cs.cmu.edu)。確か Mach OS だった初代を、FreebBSD のマシンに変えた時に「小町」と名づけたはずである。その名付け親は上述の日本語環境やメーリングリストを整備してくれた方で、大学院生として研究する傍らボランティアでサーバを運営をしてくれていた。その方とは今も twittermixi でつながっている。当時机を並べていた留学仲間の一人が、最近シリコンバレーから日本に帰国したこともあり、久しぶりにお会いしたいものである。

The Economist の記事を紹介するつもりで書き始めたエントリだったが、懐かしさのあまり、何だか日経新聞の最終面「交遊抄」みたいな内容になってしまった…。