ジャンボ軍団の一人、金子柱憲プロによる『誰も書けなかったジャンボ尾崎』。通算113勝、40歳から64勝。ジャンボ尾崎は、今もなお腰痛・怪我と闘いながら、ツアーに挑戦し続けている、誰も真似できないゴルファーである。
金子柱憲プロの知るジャンボのみならず、ジェット、ジョーという二人の弟、長男、飯合肇プロ、東聡プロ、キャディー、トレーナー、メーカーの担当者などからもエピソードが披露され、ジャンボ尾崎の姿がオン・オフ含めて浮かび上がる。その半端ないトレーニングと練習量に支えられた体力と技術力。それに支えられた自信。「心技体」ではなく「体技心」を鍛え抜く。
そして注目すべきは、その指導力であろう。原英莉花、西郷真央、笹生優花といったトップ女子プロの活躍を見ると、その正しさが証明されている。ジュニアアカデミーを開き、若い選手を育成している。
未完成の選手には練習態度(目的意識)、練習量(向上心)、集中力(探求心)を重視。成績を収めている選手には結果第一主義。先輩・仲間と一緒に学ぶ集団の中で、闘争心・競争心も養われる。
- 「体」「技」を連動させる中で、バットや重いクラブでの素振りを推奨(ゴルフ選手はもっと素振りをするべき)
- 良い球が出るのが良いスイング
- 「生きた球を打て」が口癖
- 「良い球」とは、方向性・飛距離において自分の思った通りの球筋でコントロールできること
- スイングは形ではなく、球筋を打ち分ける体の動き
- ポイントは「下半身の動き」と「腕の振り」
- 下半身:重心の低さ、切り返しのタメ、平行運動、フォローにかけての腰の切れ
- 腕の振り:右手の柔らかさ、左腕の締まり
- 最終的には「腕の振り」だけの感覚でボールをコントロールできるようにする
- 細かい部分は指導せず「自分で考えろ」
- 自分の感覚で会得しなければ試合では通用しない。
- 球筋のコントロール
- フェードを打つ → 打ち出しが絶対に目標より右に行かないように打て
- ドローを打つ → フルスイングしてもプッシュアウト気味に飛ばせるようになれ
- 試合では体が止まったり腕が振れなくなることが想定されるので、練習ではフルスイングしても少し右にプッシュアウトするくらいの方が、実戦ではちょうどよくなる
- 体重移動がうまく行かない → 左足下がりからドローを打て
- クラブが寝て入る → 低いフェードを打ってみろ
- カット気味に入る → ボールを左足寄りにセットして、右からドロー気味に打ってみろ
こういった指導の中で、体の動きを習得し、それを自分の感覚で理解することが大切。体の動きと感覚は切り離せない。
ジャンボは答えは教えてくれても、計算式は教えてくれない。解決方法は自分が試行錯誤の末に見つけるしかない。感性は誰とも共有できない。自分の感性を殺して、言われるがままに練習を繰り返しても上達は望めない。
ジャンボの指導を受ける中で「なぜ?」という疑問を持ち、その根拠を理解することで「知性」「理性」「感性」が養われる。そして上手くなるためには何でもやってみる。
クラブもボールも劇的に進化を遂げ、多くの球筋を打てることにより、スイングの再現性が求められる時代になっている。その中で、ジャンボが伝える普遍的なスイング理論はどんなことなのか?
- レートヒット
- 切り返しで作られた腕とクラブの角度を最大限まで我慢して、ボールをヒットすること。そうすることによって、長いインパクトを可能にする
- 躍動感のあるスイング
- 自身が気持ちよく振れるリズム感
この二つを実現する要素はいくつかある:
- 切り返しの「タメ」
- インパクトからフォローにかけた「右腰の抜け」「右肩の抜け」「押し込み」の感覚
- スイング中の「右手の柔らかさ」「左手の締まり」
長年、ジャンボ尾崎の傍にいた金子柱憲プロだから書くことができたジャンボ尾崎の姿とスイング論が、この本の価値となっている。
僕自身、ジャンボ尾崎の凄い活躍をテレビを通じて知っている訳だが、ゴルフを職業をする人にとっては、その凄さ・途轍もなさはもっと感じていることだろう。われわれと同世代、あるいはその前後の年代のプロゴルファーにとって、唯一無二の絶対的な存在であることは間違いない。僕より数歳年下のコーチにとっても、ジャンボ尾崎はヒーローである。コーチによれば、ジャンボ尾崎邸における練習風景を配信している YouTube の「ジャンガーゴルフ」を見て、ぼそぼそとしか聞こえないジャンボ尾崎の声を聴きとるというマニアックな楽しみ方があるらしい。
そう言えば「ドロー打ちは、練習場でプッシュアウトしていてOK」とか「ボールを左に置いて、ドローを打て」とか、コーチに言われたことがある。これすなわち、この本に記されたジャンボ尾崎の教え方と似ているのではないか?練習のやり方は示すが、あとはその練習を通して、正しい動きを自分の感覚として会得せよ、という教え方である。