Muranaga's Golf

46歳でゴルフを始めて10数年。シニアゴルファーが上達をめざして苦労する日々をつづります

村上春樹の力強い言葉「僕はなぜエルサレムに行ったのか」

村上春樹エルサレム賞を受賞、折も折、イスラエルガザ地区に大規模な攻撃を行った後に授賞式に出かけ、「壁と卵」("Of Walls and Eggs")というスピーチを行ったことに対して、賛否両論があったことは記憶に新しい。

「僕はなぜエルサレムに行ったのか」、村上春樹自身が「文藝春秋 2009年 04月号」で語っている。もともとの日本語の受賞スピーチ原稿と、実際に話された英文の全文も一緒に掲載されている。

文藝春秋 2009年 04月号 [雑誌]

id:hyoshiok 氏が紹介しているように、小説家としての自分の判断で、自分の目で見て、自分の手で触るために、村上春樹イスラエルにでかけた。「僕はなぜエルサレムに行ったのか」、そして受賞スピーチ「壁と卵」("Of Walls and Eggs")は、個人としての自分を信じて発する非常に力強い言葉である。


僕は僕なりに様々な要素を深く考慮し、個人の資格でエルサレム行きを決断したわけです。自分の下した決断について、事前に弁解したり釈明したりするのは、もともとあまり好きじゃない。黙って出かけていって、やるべきことをやって帰ってこようというのが僕の思いでした。


受賞を断るのはネガティブなメッセージですが、出向いて授賞式で話すのはポジティブなメッセージです。常にできるだけポジティブな方を選びたいというのが、僕の基本的な姿勢です。


ただ一方で、自分は安全地帯にいて正論を言い立てる人も少なくはなかったように思います。たしかに正論の積み重ねがある種の力を持つこともありますが、小説家の場合は違います。小説家が正しいことばかり言っていると、次第に言葉が力を失い、物語が枯れていきます。僕としては正論では収まりきらないものを、自分の言葉で訴えたかった。


当たり前の話ですが、イスラエルにもいろんな考えを持った人がいます。みんなが同じ考え方をしているわけじゃない。そういう人に会えたことは僕としてはひとつの大きな収穫だったし、実際に行ってみてよかったなあと思いました。大事なのは総論ではなく、一人ひとりの人間です。個人というのがすべての出発点だというのが僕の信念です。


人は原理主義に取り込まれると、魂の柔らかい部分を失っていきます。そして自分の力で感じ取り、考えることを放棄してしまう。原理原則の命じるままに動くようになる。そのほうが楽だからです。迷うこともないし、傷つくこともなくなる。彼らは魂をシステムに委譲してしまうわけです。


ネット上では、僕が英語でおこなったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんなが僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。


一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が一九六〇年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。